八女市は福岡県の南部、福岡市から南へ約50kmに位置し、北は久留米市、広川町、西は筑後市、南は熊本県、東は大分県に接しています。面積は39.34kmから平成22年の近隣2町2村との合併後482.53平方kmとなり、総面積県内2位となりました。中南部は平野、北東部は森林で占められている中核都市です。市の中央部を国道3号線が南北に、国道442号が東西に走り、西端には九州縦貫自動車道が通じ、八女インターチェンジがあります。豊かな大地に育まれ、古代から栄え、八女丘陵には岩戸山古墳をはじめ多くの古墳があります。また手すき和紙・仏壇・提灯などの伝統工芸品や茶・電照菊・椎茸などの農産物も自慢のひとつです。
最古の歴史書「日本書紀」にある”この地方に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にある”という一節が、八女という地名の由来と言われています。岩戸山古墳をはじめ多くの古墳が広がり、はるか昔から人々は豊かに暮らしていました。江戸時代には八女地方の物産集積地として、政治・文化などの中心地として栄え、現在も伝統工芸の里であり、農産物も豊富です。
梅、桜、ツツジ、シャクナゲ…茶のくに八女に咲く花は、どの花ものどかで、どの花も愛らしい。美しい里山の景色と、花の見ごろに開かれるおもてなしの祭り。茶のくにへお出かけください。すてきな出会いがありますよ。
八女提灯で明るく照らされた舞台。三味線やお囃子の音に合わせて美しい着物姿の人形が熱狂的な観客の拍手喝采に迎えられて登場し、華やかに舞い踊る…。毎年秋に八女の福島八幡宮の境内で上演されている八女福島の燈籠人形は、江戸時代から続く不思議な「からくり」の世界。260年もの時を超え、賑やかな祭りの夜を彩ってきた燈籠人形には、八女の人々の心を動かす情熱が今でも生きています。
明治時代から大正時代にかけて、八女には石橋がたくさん架けられました。大きな川にも、小さなせせらぎにも。四連の長い橋も、数歩で渡れる小ぶりの橋も。時を重ね、風雪に耐え、どっしり構え今も48基が残っています。その姿は、道ゆく人をなごませます。
清冽な矢部川の水と温暖な気候、紅色に染めた櫨の筑後路。古くからこの美しい風土を愛してきた八女福島ゆかりの文化人は多く、松尾芭蕉の高弟・志太野坡から続く八女の俳壇系譜を見ると、当時の華やかさが伝わってきます。
また、俳人ばかりではなく日本を代表する洋画家・坂本繁二郎や青木繁も八女との関わりは深いのです。文芸評論家の山本健吉・女流俳人の石橋秀野夫妻は八女に眠り、伝記作家の小島直記や小説家・中薗英助は八女で育ちました。一方、芭蕉十哲の向井去来や野田成亮、放浪の俳人・種田山頭火も八女に立ち寄り句を残しています。
八女を愛した彼らの言葉を拾いつつ、古い歴史の趣を残す八女福島の町並みをそぞろ歩くのは文学碑巡りの醍醐味と言えるでしょう。
八女の歴史は伝統工芸品とともに歩んできた歴史でもあります。
仏壇や提灯は江戸時代から、手すき和紙は400年以上前から、石灯籠の八女石工としての歴史は古墳時代の「石人・石馬」までさかのぼることもできます。昔ながらの町並みのなかで、磨き上げられた職人の技が今も息づいています。
職人の工房を訪ねながら、町並みを散策したり、おいしい八女茶を飲んで休憩したり、ゆっくりと八女を味わってみませんか。
前方後円墳は教科書で見るものだと思っていませんか?近畿地方だけにあるものだと思っていませんか?実はここ九州にも、大きな前方後円墳がたくさんあります。
北部九州の中でもずば抜けて巨大な前方後円墳が「岩戸山古墳」。筑紫君磐井が築いたものといわれています。磐井と同じ時代に生きたヤマトの大王(おおきみ)継体天皇のそれと、遜色のない大きさです。
筑紫君磐井とは、どんな人物で、どんなドラマの主人公だったのでしょう。
時は南北朝時代。征西将軍宮・懐良親王を中心に九州で繰り広げられた壮絶な戦。クライマックスで八女は時代の舞台となったのです。
征西将軍宮・懐良親王や南朝最後の親王である後征西将軍宮・良成親王の御陵墓ほか、数多く残るゆかりの地で南北朝時代の奥八女のドラマをたどってみてはいかがでしょうか。
全国に知られる「八女茶」。古くから八女では、大切にお茶を育てて来ました。お茶は八女の暮らし、文化、歴史、伝統の中に深く根付いています。そのお茶文化が持つ健やかさ、日本的な情緒、もてなしの心に触れ、ゆっくりと過ごしませんか。
この「ようこそ 茶のくにへ」では、八女茶を知って頂き、八女茶の魅力を体感できる場所を紹介しています。「茶のくに八女・奥八女」を訪れ、もてなしの心に触れてみてください。