八女市の中心部(福島町)は古くからの町です。慶長6年(1601)に田中吉政が福島城として整備した後、久留米藩主有馬氏により廃城となったものの、商家町としての福島は残りました。以後、八女福島はこの地方の交通の要衝となり、物資の集散地として発展していきます。
ここで紹介している文学碑は、八女福島にゆかりのある人々の足跡です。そのため碑文はできるだけ自筆の文字が使われ、作者と関係のある場所に建立されています。すなわち文学碑のある地点は、作者の生きていた過去と現代を繋ぐポイントでもあるのです。ぜひ実際に文学碑と向かいあって深呼吸し、八女の空気と文化の一端に触れてみましょう。
松尾芭蕉の百五十回忌(10月12日)を記念して建立。碑文の中の「橘雪庵門人」とは謹書した山布留の弟子たちのことです。庵名は山布留の父・橘雪庵貫嵐が初めて名乗ったもの。当日の「祖翁」追善句会には12,105の句が寄せられました。(書 橘雪庵二世長閑斉山布留)
寛永21年~元禄7年(1644~1694)
三重県伊賀市出身 / 俳諧師
蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立した。
平田稲荷神社 八女市本町43(西紺屋町)
境内への赤い鳥居が鮮やかな稲荷神社。山布留は稲荷の熱心な信者で、屋敷内に平田正一位稲荷大明神の祠堂を勧請した。
江戸時代中期以来、八女では俳諧文化が花開き、多くの俳人が活躍しました。その俳人の祖と言われているのが、橘雪庵貫嵐こと松延貫嵐です。 身分制度の厳しい封建時代にあって、大庄屋職から人形浄瑠璃作者になり、帰郷しては俳人になるという貫嵐の型破りな行動は、この地に華やかで進んだ上方文化をもたらしました。 句界でも名を成した貫嵐は、雪中庵俳諧判者の免許を得て、福島八幡宮わきの隠居宅梅月庵で多くの俳人を育てました。彼が残した雪門の俳風は彼の没後も燈籠人形の発展伝承に大きな影響を与えています。 貫嵐は江戸期、八女福島町が生んだ代表的な文化人といえるでしょう。
享保18年~寛政7年(1733~1795)
俳人、物語作者、大庄屋
本名 松延甚左衛門種茂、福松藤助(陶芋)、句集「俳諧人次第」
福洲銀行跡小公園敷地内 八女市本町110-1番地(中宮野町)
貫嵐とゆかりのある福島八幡宮のすぐ近くの道路脇。
碑文はともに二人の絶句で代表作。秀野の句は直筆、健吉の句も原稿等から一字づつ選び出されました。夫婦句碑ということで桜御影石を同じ大きさで真っ二つに割り、その二つの石を噛み合わせた珍しい形。建立には全国から寄付金が寄せられ、歌手さだまさしは健吉に送る歌「夢しだれ」を作曲しています。堺屋裏門外の堀に沿って健吉の文字を拡大模刻した「夢中落花 山本健吉」の碑があります。この碑石は「夫婦句碑の標石」とともに旧石橋養元(健吉の祖父)宅の門柱でした。八女市西古松町にある無量寿院には山本健吉・石橋秀野夫妻が眠る石橋家の墓があります。
明治40年~昭和63年(1907~1988)
長崎県生まれ。石橋忍月の三男。本名・石橋貞吉。
「古典と現代文学」「芭蕉」等多くの著作がある。
旧木下家住宅「堺屋」 八女市大字本町184(東京町)
境内への赤い鳥居が鮮やかな稲荷神社。山布留は稲荷の熱心な信者で、屋敷内に平田正一位稲荷大明神の祠堂を勧請した。
中薗英助は戦前、旧制中学校(現・八女高校)までの少年時代を八女で過ごした後、故郷を振り切るように中国大陸に渡りました。引き上げ後は八女に帰ることなく上京して純文学や推理小説を手がけ、語られることのなかった戦時下の中国を題材にした作品を次々と発表しました。日中の歴史の空白を埋めた彼は、晩年になり1992年から雑誌「新潮」にて連載された「南蛮仏」において、八女の実家に伝わる「痩せ仏」の由来を辿っていくことで、自分自身の空白のルーツを探っていきます。郷土の歴史を背景に望郷を込めた感動的な自伝的歴史小説です。
大正9年~平成14年(1920~2002)
作家、本名 中園英樹
福岡県遠賀郡上津役村に出生。主な著作は「夜よシンバルをうち鳴らせ」。
八女市横町町家交流館 八女市本町94番地(東宮野町)
北棟は弘化二年(1845)建築。当時の屋号は酢屋。高橋商店(しげます)が両棟を取得して明治・大正・昭和期と造り酒屋を営んだ。平成9年に町並み保存の拠点施設として整備復元された。
橘雪庵貫嵐とその子長閑斎山布留によって基礎作りされた八女の俳壇を、見事に開花させ黄金期を導いたのが古池花鸚です。江戸から八女に帰国した時、あの著名な雪中庵高弟だと全九州に名が知れ渡りました。能書家でもあった花鸚は寺小屋も開き、習字の教えを受けた寺子数は約300人にも上ったといいます。雪中庵より九州補助になったときの披露宴には、なんと雪中庵六世推陰(すいいん)自ら江戸より下ってその席に臨みました。生来の「小池」から改めた「古池」は、花鸚がこよなく敬慕した芭蕉の「古池や…」の句にちなんだもの。近年、花鸚自筆の「蛤草帋孝子志々羅遊漁之図」の発見により、彼が明治5年・同16年の燈籠人形の台本も書いていたことが実証されました。
文政元年~明治33年(1818~1900)
福岡県久留米市通町出生。
父は久留米藩武士・小池源蔵。
帰国後は「晴雪庵」と号して俳句指導にあたる。墓は西勝寺。
西勝寺 八女市本町80番地(西紺屋町)
真宗大谷派寿永山。文亀3年(1503)、蒲池氏の末孫頓理和尚が三潴郡蒲池村崇久寺から分寺開山。山門と楠の大木、本堂の一部に昔の面影を残している。
芭蕉の死後、野坡は何度も九州を訪れました。後年「蕉門之学者」といわれるほど芭蕉の論説をよく理解し、社交的な温厚な人柄だったせいか、野坡流の門下は3000人ともいわれています。八女の弟子・若林旦夕からは松延貫嵐を経て山布留、花鸚ら多くの俳人が誕生し、彼らは「福島燈籠人形」の台本作者になりました。
寛文二年~元文五年(1662~1740)
俳人 / 越前福井出身。
松尾芭蕉の高弟で「蕉門十哲」の一人。元禄七年(1694)「炭俵」を編集・刊行。
祇園社 八女市本町211(東古松町)
祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)で神体は木像。 慶長二(1597)年、筑紫広門が肥前田代より勧請した。
種田山頭火を代表する有名なこの句は、八女の地で50才の時に詠まれました。「行乞(ぎょうこつ)記」によると、昭和6年12月24日の朝、山頭火は山鹿温泉をあとにして、八女に宿泊。翌25日の天候は雨で時々霙(みぞれ)。「…山鹿の宿もこの宿も悪くない。二十銭か三十銭でこれだけ待遇されてはもったいないような気がする。…みんなとりどりに人間味たっぷりだ。」自嘲まじりの寂しい句だが、実際に宿泊した福島町の中尾屋での一夜は心温まるものだったことが窺えます。
明治15年~昭和15年(1882~1940)
俳人 / 山口県防府市生まれ。
名は正一。季語や俳句の約束事にこだわらない自由律俳句の俳人。
八女公園 八女市本町569番地1(西京町)
福島城(天正年間から慶長年間にかけて築城)の跡地を利用した公園。公園内には、当時をイメージした噴水や掘割等がある。
「ホトトギス」の巻頭句を飾り脚光を浴びた野見山朱鳥は、自らが主宰する俳誌「菜殻火(ながらび)」の表紙を、坂本に二回も描いてもらいました。最初に朱鳥が坂本に会った時、帰り際に玄関まで送り、膝を揃え中座して一礼したことで「身のすくむ」思いがしたと「愁絶の火」で述懐しています。朱鳥は坂本の画風に深く共鳴し、温かい人柄をひたすら敬慕していました。坂本の死の半年後、朱鳥も後を追うように亡くなりました。
大正6年~昭和45年(1917~1970)
福岡県久留米市通町出生。
父は久留米藩武士・小池源蔵。
無量寿院(むりょうじゅいん) 八女市本町283-1(西古松町)
天平期に創立され慶長六年に現在の地に移転した浄土宗寺院。本堂は17世紀末期の建築物。境内には天然記念物のケヤキ(樹齢推定400年以上)、藤の古木があり、桜の時期には花見客も多い。
句碑は忍月の養父・養元の診療所兼邸宅のあった場所に建ちます。忍月はたびたび八女を訪れており、三男・山本健吉も邸前の花宗川で水泳などを楽しんだといいます。
慶応元年~大正15年(1865~1926)
文芸評論家 / 黒木町生まれ
本名・友吉。山本健吉は三男
帝大学生時代、森鴎外との『舞姫論争』は有名。
花宗川 八女市本町
矢部川の花宗堰(八女市津ノ江)から分水し、大川市で筑後川に合流する河川。
歌碑のある岡山公園は、繁が少年時代「画壇のアレキサンダー大王になる」と誓った場所。歌は当時日本一の櫨生産地だった室岡にいた母に捧げたもの。碑文の書は坂本繁二郎。すぐ近くの高速道路法面には、地元有志により櫨1000本が植栽され、毎年秋の「紅櫨まつり」では繁の子・福田蘭童作曲による父の歌を地元岡山小学校生が合唱しています。
明治15年~44年(1882~1911)
洋画家 / 久留米市出身
繁の母のマサヨは八女郡岡山村(現八女市)室岡出身。29才で死去した彼の葬儀は室岡の母の実家で行われた。
岡山公園 八女市室岡585番地
標高約50m。八女市を一望できる景勝地で桜の名所として花見客も多い。明治44年(1911)、陸軍特別大演習時に明治天皇御野立所となった。別名「龍頭山」。
清冽な矢部川の水と温暖な気候、紅色に染めた櫨の筑後路。古くからこの美しい風土を愛してきた八女福島ゆかりの文化人は多く、松尾芭蕉の高弟・志太野坡から続く八女の俳壇系譜を見ると、当時の華やかさが伝わってきます。
また、俳人ばかりではなく日本を代表する洋画家・坂本繁二郎や青木繁も八女との関わりは深いのです。文芸評論家の山本健吉・女流俳人の石橋秀野夫妻は八女に眠り、伝記作家の小島直記や小説家・中薗英助は八女で育ちました。一方、芭蕉十哲の向井去来や野田成亮、放浪の俳人・種田山頭火も八女に立ち寄り句を残しています。 八女を愛した彼らの言葉を拾いつつ、古い歴史の趣を残す八女福島の町並みをそぞろ歩くのは文学碑巡りの醍醐味と言えるでしょう。