宮内庁陵墓守部(しゅぶ)として「大杣御陵墓」を守る現・五條家当主は、懐良親王に仕えた初代・五條頼元から数えて24代目。この間、南北朝時代のゆかりの品が大事に守られてきました。年に一度、虫干しを兼ねて「金烏の御旗」などの貴重な歴史資料が一般公開されます。
明治時代、旧家の古文書調査で調査官が驚いたという第一級の史料。南北朝当時の重要な巻に始まり、菊池家・阿蘇家・大友家・加藤清正などに関連深いものが揃います。
戦の先陣で掲げられていた御旗。金の烏(カラス)は太陽を表す。4人の皇子に与えられたといい、現存するのは五條家だけです。
明治時代に描かれた「大保原の戦」の一幕。親王のお顔が松の枝で隠されていたり、菊池武光が川で刀を洗っていたり、たくさんの話が盛り込まれています。
宮内庁書陵部陵墓課が管理する皇室の墳墓の総称。
後征西将軍宮 良成親王墓は、明治11年(1878)に現在の宮内庁が陵墓に認定し、代々、五條家の子孫が守部(しゅぶ)に任命され御陵墓を守っています。
昭和15年に皇紀2600年を記念して作られた神楽舞。「うら」は心を指す古語で、「うらやす」で心中の平穏を表す語として、「波立たぬ世」を願い巫女たちによって奉納されます。
この御陵墓に向かう道沿いの小さな集落は「御側」と呼ばれます。親王お付きの人々が近くに住んだことにちなむ名といいます。
大杣公園をさらに奥へ登っていくと、「杣の里」があります。奥深い森に包まれた宿泊施設で、釣りや陶芸体験、草木染を楽しむ家族連れに人気。南北朝のロマンを散策したあと、ゆっくり滞在するのにお勧めです。
勇猛で名高い菊池武光とともに九州を制圧して十数年戦った懐良親王は、ついに南北朝時代最大の合戦「大保原の戦」(現在の小郡市)で北朝方に討ち勝ち、大宰府に征西府をおきました。それまでの戦いの中でも、星野は要害の地、癒しの地であり、親王はたびたび星野に入ります。その後、九州探題・今川了俊に追討されるまでの12年間が征西府の最盛期でした。敗れて傷を負った懐良親王は星野に入り養生に専念、良成親王に征西将軍職を譲ってからは大円寺で仏道ざんまいの日々を過ごしました。
大円寺の資料館には、「大保原の戦」の戦図や、刀、古文書、星野氏の系図などが展示されています。
大円寺の襖の下張りから菊と桐の御紋が発見されました。これは親王在住時の菊の間、桐の間のなごりと伝えられています。
懐良親王三百回忌に五條氏より奉納された品。象牙の環の刻銘により親王御入在を示す重要史料。
星野氏は、南北朝の戦では南朝・懐良親王の力強い味方であり、親王は深い傷を負ったときも星野へ逃れて静養しました。星野は山が険しく自然の砦として外敵の侵入を拒みます。深い山中は山の民でないと案内できなかったともいわれていました。星野氏は耳納連山に鷹取城という山城を築き、菩堤寺は懐良親王ゆかりの大円寺であり、星野谷全域に大きな勢力を誇りました。
黒木氏は、平安末期に大隅国根占郷(鹿児島県南大隅町)から筑後国黒木郷に移り、豊臣秀吉の九州平定のときに廃城になるまでの城主でした。南北朝時代は懐良・良成親王に忠誠を尽くしましたが、猫尾城は北朝方にたびたび攻められ激しい戦いの場となりました。山の上には今も本丸入口に石垣が残っています。
木屋行實は、黒木氏の統領であり菊地氏、五條氏らと協力し郷土の若者を率いて戦い懐良親王を支えました。「大保原の戦」の際には、合戦前の小競り合いで行實が先頭で夜襲をかけ、合戦の火蓋が切られたそうです。黒木の木屋邸の裏山、一段高い所に墓があります。
奥八女でゆかりの地を歩くなら、黒木の大藤は必見です。良成親王お手植えとも伝えられています。境内を覆う藤の花は見事で、大勢の観光客が見物に訪れます。
天孫降臨神話でニニギの3子が誕生したのはこの地であり、うち2子が日向国へ移り、ホアカリがこの地へ留まった、という神話が残っています。その神が馬に乗り天を駆けるうち、馬のひづめがあたり岩に穴が開いたのが「けほぎ岩」と伝えられ、切り立った岩肌は神秘的です。
天照大神が日向国から伊勢へ移られる途中、「もう見おさめだろう」とこの地に降り立ち日向国をふり返ったといわれます。日向を見たので「ひゅうがみ」。そんな伝承も残されます。
「やめ」の由来にはいくつもの伝承があり、『日本書紀』と景行天皇、『住吉大社神代記』、星野の八女星伝説と、どれも奥深いものばかり。
「日本の棚田百選」にも選ばれている広内・上原地区の棚田。美しい景観が織りなす奥八女の代表的な風景です。山を切り拓く中で発生した石を一つ一つ積み上げられた棚田からは、先人の知恵や工夫がうかがえます。
矢部の特産物を一堂に集めた直売店。店内にはソマリアン・カフェがあり食事も楽しめます。
八女地方は古代から石造文化が発達し、「学びの館」では多様な石積みを見学できます。展示室では南北朝時代の文化財である「五条家文書」の複製が展示公開されています。
鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇がしいた建武の新政も、足利尊氏らの離反により終わりを告げます。吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝と、足利尊氏が京都に光明天皇を擁立した北朝に分かれ、正統を争う南北朝時代が約60年間続きました。その終わりの頃、北部九州は壮絶な戦いの舞台となりました。奥八女には征西将軍宮・懐良親王や南朝最後の親王である後征西将軍宮・良成親王の御陵墓ほか、ゆかりの地が数多く残っています。