この地方に突如巨大な前方後円墳が築かれました。
それが広川町の「石人山古墳」。年代から考えて、磐井の祖父の墓ではないかといわれています。石室に置かれた「家形石棺」とその前に立つ「武装石人」は有名で、どちらも重要文化財です。
磐井の時代に一族の繁栄は絶頂期を迎えます。財力・軍事力・多くの人を動かす動員力をすべて手にした磐井は、巨大な自分の墓、「岩戸山古墳」を生前に築きました。6世紀前半だけで見ると、磐井より大きな古墳は、継体天皇の前方後円墳ほかわずか。磐井の力がわかります。
527年にヤマト王権に対抗。古代史上の大事件「磐井の乱」です。翌年、磐井が敗れると、九州の豪族の力は急速に衰えます。しかし磐井一族は、ヤマト王権に支配される中で生き延びるために火の国と婚姻関係を結ぶなどして、手を組みながら生きていったのです。
磐井は大陸との交流を持っていました。
当時の交通は海路。船を造り、船を操る者が、強い者でした。筑後川、有明海を通じて大海を渡り、大陸と行き来しました。百済と深い関係を持っていたヤマト王権とは違い、新羅との独自の交流ルートを持っていた磐井。
やがて朝鮮半島を統一する黄金文化華やかな新羅との間を、独自に、堂々と行き来したのでしょう。
527年、「磐井の乱」がおきました。日本はまだ統一国家ではなく、有力豪族が各地を治めていました。ヤマトと地方豪族は対等でありながらゆるやかな上下関係にあり、九州の豪族たちは、朝鮮半島への進出をめざすヤマト王権から、人や船や食糧を提供させられ、不満がたまっていきました。軍事・外交・内政すべてに自立し、財力も持つ磐井は、ついに火の国、豊の国と力を合わせ、立ち上がったのです。しかし磐井は敗れ、この後に急速にヤマトの国家統一が進みました。「磐井の乱」は日本古代史上の大事件だったのです。
527年に始まり、翌528年ヤマト王権により鎮圧された日本古代史上最大の内乱と言われています。
朝鮮半島の西南部の国「百済」を助けるため、ヤマト王権が大きな軍事的負担を強要した事に強い不満をもった九州の諸豪族が「筑紫君磐井」を盟主として結集し、起こした反乱であると伝えられています。
しかし最近の研究では、ヤマト王権からの圧力に耐えかねた磐井を中心とした豪族たちが、自らの権益を守り、ヤマト王権からの独立を目指した「独立戦争」と考えられるようになり、「磐井の戦」と呼ばれる意見も多数見られるようになりました。
古事記や日本書紀に磐井は「天皇の命令に従わない悪者」として記されています。本当にそうなのでしょうか。
ヤマト王権は度重なる朝鮮半島進出のための負担を九州の豪族に強要しつづけました。
乱に加わった「火」の国(現在の熊本県)、「豊」国(現在の大分県)も同じ思いだったのでしょう。ヤマト王権の勝手な出兵により疲れ荒れ果てていく地元の人々や土地を見て、我慢の限界が来たのでしょうか。ついに磐井は九州の諸豪族と共にヤマト王権に対し反旗をひるがえします。
自国の荒廃振りを目のあたりにし、磐井は何を成そうとしたのでしょうか。
ヤマト王権から見れば「命令に従わない悪者」に映ったのだと思いますが、八女の地を守り、九州を守ろうとした磐井は、やはり郷土の英雄だと思いたいものですね。
1年半もの長きにわたり、戦い続け疲れ果てた磐井率いる筑紫連合軍。しかし、ヤマトの軍勢も状況は同じ、皆疲れ切っていました。 528年11月、磐井の軍勢とヤマトの軍勢は御井郡(今の福岡県久留米市)付近で最終決戦を行いました。しかし、磐井は敗れ、九州の地にヤマト王権の支配が及ぶようになりました。 主なきあとの一族は、そして八女の人々はどうなっていったのでしょうか…。乱後の八女には磐井の息子である葛子を中心に一族の姿は健在でした。岩戸山古墳の後に造られた鶴見山古墳などの大型前方後円古墳の存在は、これを証明しています。九州を、そして八女の地を守ろうとした磐井の遺志は、着実にその息子たちに引き継がれていたのです。
死者を祀る世界でも、ここでは独特の文化が花開きました。古墳の周りには埴輪を並べるのが一般的ですが、磐井一族の古墳には代わりに石の彫像が並びました。磐井の乱の後、ヤマトから来た兵は、怒りゆえか、怖れゆえか、石人たちを叩き壊しました。地上から石人が消えた後、ひっそりと古墳内部の石室で、装飾壁画が花開きます。石人石馬。装飾古墳。独自性を持つことをやめなかった先人の誇り高き心が伝わるようです。
関西地方を中心として日本全国に広がる大半の古墳には、それを飾るために土で出来た埴輪を並べたのに対し、磐井一族はあえてそれを採り入れず、地元の石で作った「石人・石馬」を立て並べました。広川町の石人山古墳に立つ「武装石人」は、その最初の石人です。
「石人・石馬」を立て並べた一番の理由は、ヤマト王権とは全く異なる立場を「埴輪と石人」で表現し、王権からの独立を目に見える形で表現したかったからなのです。
土製の埴輪は10数年位で壊れてしまいますが、石人・石馬は石で出来ているので100年位では壊れません。
ここにも、磐井一族の思いの強さが出ているようです。
磐井の乱が終わる頃、九州にまた新たな文化が生まれます。死者の眠る石室内を鮮やかな色や、様々な文様で描く「装飾壁画」です。九州は装飾古墳のメッカで、日本全国に約700基あると言われる内の半数以上が集中しています。 その色づかいや文様は、古代人の思いが込められたもの。 眺めていると、古代八女人の「あの世」に対する考え方が伝わって来るようです。
耳納連山の南側の裾野に、八女丘陵はなだらかに続きます。この小高い丘に磐井一族の古墳が累々と続き、さながら「王家の丘」。その東の端、一族のほぼ最後の墓が、童男山古墳です。ここは日本でも珍しい巨石古墳。石室の内部は天井まで届く大岩が壁を成し、崩れ落ちた羨道(入り口部の廊下)の巨大な天井石が、江戸時代から動かすこともできず入り口前の広場にあります。どうやって、こんな巨石を丘の上まで運んだのか、今も謎のままです。
直径48mもある巨大な円墳である「童男山古墳」。
身の丈よりもはるかに大きな巨石を組み上げた巨大な横穴式石室は、福岡県下で3番目の大きさを誇っています。
内部には、熊本県・チブサン古墳や広川町・弘化谷古墳と同じ立派な石屋形(石棺を囲む屋根付の施設)があり、中には大型の石棺がおさめられています。
まさしく、磐井一族、筑紫君一族の王の墓にふさわしい内容となっており、非常に大きな労働力を動員できる人物のなせる技です。
童男山古墳を最後に、磐井一族の築いた古墳は姿を消し、200年間続いた八女古墳群はその役目を終えます。
全国的に見れば、この時代は仏教伝来の頃。各地の豪族たちは古墳を築くのをやめ、寺院の建立に力を注ぐようになります。残念ながら、八女では未だ寺院跡は発掘されていませんが、近い将来見つかるかも知れませんね。
岩戸山古墳の南燐にある、全国から考古学ファンが訪れる資料館。八女は全国有数の埋蔵文化財の宝庫。1500年前のそれらが、惜しげなくぎっしりと並ぶのは圧巻。本物はやはり、すごい。そがれた手、落とされた首、傷だらけの体。石人は生きていて何かを語っているようだ。展示品の9割以上に「重要文化財」のカードがさりげなく示してあるけれど、当たり前すぎて、それがまたすごい。
見所は、弘化谷古墳の装飾壁画。実物大レプリカに色鮮やかな原始絵画がたくさん描かれています。双脚輪状文という珍しい文様は、要観察!全国4例しかない珍しいもの。磐井一族が火の国と婚姻関係を結び始めたことを表す貴重な史料です。
前方後円墳は教科書で見るものだと思っていませんか?
近畿地方だけにあるものだと思っていませんか?
実はここ九州にも、大きな前方後円墳がたくさんあります。
北部九州の中でもずば抜けて巨大な前方後円墳が「岩戸山古墳」。
筑紫君磐井が築いたものといわれています。
磐井と同じ時代に生きたヤマトの大王(おおきみ)継体天皇のそれと、
遜色のない大きさです。
筑紫君磐井とは、どんな人物で、どんなドラマの主人公だったのでしょう。