福島八幡宮の放生会に、人形の燈籠を奉納したのが「燈籠人形」の始まりです。
明和9年(1772)には、浄瑠璃作者福松藤助(松延甚左衛門)が大坂より帰郷。人形を動かす工夫や当番町制の上演に力を貸して以後、動く人形が登場しました。それが、主役となり現在の「からくり人形」の基礎ができます。
天保15年(1844)に久留米藩の大倹令(倹約規制)により上演が禁止されていましたが、明治4年(1871)燈籠人形の奉納が復活します。以後、第二次世界大戦による燈籠人形奉納の中止期間を経て、昭和52年(1977)には「八女福島の燈籠人形」として国の重要無形民俗文化財に指定されます。
以上、4つの芸題を、保存会で毎年順番に上演している。
田中吉政、柳川に本城を築き、二男康政に三万石を与えて福島城を大修復。城下町の形態ができる(現 福島八幡宮氏子町内)
福島城廃城になる。有馬豊氏が久留米城主(二十二万石)となり、矢部川以北は久留米藩となる。
旧福島城下町民の氏神として、現在の場所に八幡宮を勧請。(福島八幡宮の放生会のはじまり)
形の燈籠を放生会に奉納するようになる。
福島八幡宮開元百年紀に千燈籠を寄進。
元福島組大庄屋松延甚左衛門、大坂から帰郷し、からくりの技術を伝える。(「からくり人形」の基礎ができる)当番町制による上演様式の確立。
久留米城下櫛原町五穀神社内、天満宮勧請遷座祭にて出張興行。全ての見物客から見料五文徴収。
幕命により久留米藩に大倹令が下り、 福島燈籠人形奉納の中断の命令。
藩命に従わず、燈籠人形を奉納した記録。
燈籠人形復活。西矢原町より「七夕」奉納。
坂東三津五郎一座の唄方・玉村孫一や笛太鼓名人・木村などが囃子方を指導稽古、上方風に変遷。
学者・樋口平舎、「玉藻前」作詞。古池花鸚が燈籠人形の囃子長唄の台本作詞協力。
第二次世界大戦 戦時体制により奉納は中止。
福島燈籠人形、無形文化財として県の指定をうける。
福島燈籠人形保存会発足。
重要無形民俗文化財(第81号)として国が指定する。
燈籠人形の舞台は、高さ8m、幅14m、奥行6m余りの二階建、三層構造になっています。三層は下から、下遣い場、横遣い場、囃子場になっています。この舞台は「屋台」と呼ばれ、組立て、取り壊しが自由にできるように、一本の釘・カスガイも使われていないのが特徴。屋台の組立ては、上演の一ヶ月前に一週間程度で行われます。建物全体は、金箔・銀箔・漆塗りで出来ており、福島仏壇を造る技法の基になったといわれています。
最終日の最終公演(千秋楽)のみ、通常は板や障子で遮られて見えない一層や二層の楽屋、三層が全て開け放たれて上演されます。
最盛期は十数台あったといわれる屋台も、現在は二台残すのみ。昭和39年(1964)以降「燈籠人形保存会」によって上演される演題(四つの演題を毎年順番に上演する。つまり、四年ごとに同じ演題が巡って来る)に従い、使用する屋台が決まっている。
物語が進むにつれ、舞台奥の背景が次々に変化する。専門職人によって色鮮やかに布に描かれた背景は、上演前には何枚も重ねて設置されており、進行に従って、一枚ずつ手前の布から下に落とされ、次の背景が現れる仕組み。
屋台正面は、旧福島城第三郭の石垣の跡。その斜面を玉石でふき、野外観客席に仕立てた。高台は立見席になっており、上演時には、この高台と斜面が大勢の観客で埋まる。
燈籠人形の上演は、人形を操る人形方や、唄や演奏を行う囃子方、演出の狂言方、衣裳方など総勢四十数名の協力で行われます。出演者は全て地元、福島八幡宮の氏子たちで、いつもは別の仕事や学校がある人たち(素人衆)です。この時期、福島八幡宮に集い、燈籠人形の保存伝承を行ってきました。
舞台左右の楽屋から人形を操る。左手、右手、首、体などをそれぞれが担当し、左右の楽屋に6名ずつ、12名で人形を動かす。舞台袖の見えない所から、長い棒を繰り出すと、人形台に取付けられた棒に触れ、それぞれに結びつけられた糸が屈伸して手や首が動く仕組み。
舞台下で人形を操る。6人が、それぞれ手、首、体を担当するのは横遣いと同じ。人形の下から直接糸を屈伸させて、人形を動かす。人形の進行は、床に造られた溝を利用する。
拍子木を打ち、囃子方と人形の遣い手の呼吸を合わせる役割を担う。
燈籠人形公演の期間中、「燈籠人形」の『燈り』、「八女提灯」の『灯り』などにちなんで、『あかり』をテーマにしたまつり「あかりとちゃっぽんぽん」が開催されています。八女福島の町並み界隈では、提灯まつり・あかり絵パレード・地場産まつり・町屋まつりなど、多彩なイベントが繰り広げられ、多くの人で賑わいを見せます。
町屋まつりにあわせて、商店や個人宅でいろいろな作品展も行われ、寺では、「寄席」「日本舞踊公演」「茶会」などが開催される。(右上写真は、花柳寿寛創作舞踊公演「ちょぼくれ」)
白壁の町並みを、手作りの「あかり絵」がパレードする。(作品を作った学校や職場の団体が、町を練り歩く幻想的な風景)
小学校、幼稚園、保育園などの子どもたちが描いた提灯(写真は、八女伝統工芸館近く)が、町並みの各所に飾られる。大提灯は、福島八幡宮正面鳥居に続く道に置かれている。
町並みの至る所で、八女の伝統的な職人技の実演や、工芸体験などが実施されている。(写真は久留米絣の森山虎雄さん。他にも、八女矢、木工、和蝋燭、仏壇などを実演)
町家の中庭では、竹灯明(竹灯りイルミネーション)が飾られた。(写真は、横町町家交流館の庭)
露店がたくさん並び、人力車での町並み案内、路上パフォーマンスなども繰り広げられる。
燈籠人形の屋台の建築技術が大いに役立ったと言われる八女福島仏壇。もともと八女地方は古くから信仰心の厚い土地柄で、伝統のある寺が多く残っていました。 文政4年(1821)、指物大工の遠渡三作がある夜、荘厳華麗な仏閣の夢を見て思い立ち、同業者だった井上利久平、平井三作の両名に協力を求めて仏壇製造を志したといわれています。製造技術が確立されたのはもう少し後の嘉永年間(1850年頃)で、九州での仏壇製造の源流ともなっています。 仏壇の製法は彫刻、金具、塗装、蒔絵という加工の工程と総組立てに分けられ、全工程数はなんと80工程余り(!)木地、宮殿、彫刻の木工部分の一部を除いて、ほとんど手加工による伝統技法が継承されています。
燈籠人形にかかせない「提灯」。和ろうそくの原料である木蝋(櫨蝋)、火袋の原料である和紙、骨の材料である竹、賀輪(がわ)の材料である木材・・八女はこれら全てが揃っていました。 八女提灯(福島提灯)の始まりは文化13年(1816)頃に福島町の荒巻文右衛門によって作られた「場提灯」と伝えられます。主に仏壇用のものが多かった為、八女地方は盆提灯の産地として名声を博してきました。 明治に入ると福島提灯に対する需要が急速に伸び、吉永太平の弟、伊平が早描きの描画法を応用して、大いに製造時間と価格を低減。また、形状・絵画・付属品等も年を追って工夫改良を施し、一部は米国、英国、香港、インド等の海外にも輸出されました。そして、福島提灯は八女地方全域で生産されるようになり、「八女提灯」と呼ばれるようになりました。
八女伝統工芸館のすぐ隣。館内には燈籠人形屋台が実物大で再現・展示されており、屋台がどんな仕組みになっているのかが一目瞭然。屋台の裏側に回って舞台裏を見ることもできるので、複雑な人形の動きもバッチリわかります!ここを見ておけば公演の下調べは完璧?!
八女提灯で明るく照らされた舞台。三味線やお囃子の音に合わせて美しい着物姿の人形が熱狂的な観客の拍手喝采に迎えられて登場し、華やかに舞い踊る…。毎年秋に八女の福島八幡宮の境内で上演されている八女福島の燈籠人形は、江戸時代から続く不思議な「からくり」の世界。260年もの時を超え、賑やかな祭りの夜を彩ってきた燈籠人形には、八女の人々の心を動かす情熱が今でも生きています。